2022年11月末にOpenAIがChatGPTを公開してから、もうすぐ3年という月日が流れようとしている。このわずかな期間に、AIは瞬く間に僕の日常生活に深く浸透している。AIという単語を聞かない日はないし、AIで何をしたいかを考えない日はない。それくらい、僕の生活になくてはならないものになっている。
正直なところ、今となっては「AI以前」の自分が、どのように情報を探し、コードを書き、アイデアを練っていたのかを鮮明に思い出すことすら難しい。それほどまでにAIは、思考のパートナーとして、あるいは有能なアシスタントとして、僕の生活に溶け込んでいるのである。この大きな時代のうねりに飲み込まれてしまう前に、AIと共に生きる現在地と、そこから見据える未来についての雑感を、ここに書き記しておきたい。
仕事を変えたAIたち - 開発現場の変革
僕の日常において、最もAIの恩恵を受けている領域は仕事、特にソフトウェア開発の現場である。ChatGPT公開当初は、ブラウザ上でChatGPTに質問を投げかけたり、API経由で文章を生成させたりといった、いわば「対話」が中心であった。しかし、本当の意味で仕事のあり方が変わったと実感したのは、GitHub Copilotの登場である。
Copilotによるコーディング革命
GitHub Copilotは、VS Codeの拡張機能として、コードの自動補完や提案を行う。これは単なる入力補助ではない。数行のコメントや書きかけの関数名から、その意図を汲み取り、驚くほど的確なコードブロックをまるごと生成してくれる。これまで、実現したい機能の仕様を頭の中で描き、それを一つひとつの命令に分解し、ライブラリの仕様を調べながらタイピングするという、多段階の思考と作業を要したプロセスが劇的に短縮された。開発体験が180度変わった、という表現は決して大げさではない。
思考と実装のシームレスな融合 - Cursorの衝撃
Copilotが「補助」の領域にいたとすれば、その次に現れたCursorのようなAIネイティブなコードエディタは、「協業」のレベルにまで開発体験を引き上げた。Cursorは、チャットインターフェースを通じて、より高次元の指示を理解し、プロジェクト全体の文脈を把握した上で、リファクタリング(コードの改善)や新機能の実装を自律的に行う。
これにより、開発者の役割は大きく変化した。「着想を実装に落とし込む」というステップが、「着想がほぼそのまま実装になる」という世界へと変貌を遂げたのである。プログラマーはもはや、細かな構文やアルゴリズムの暗記から解放され、より本質的な「何を創るべきか」「どのような設計が理想か」という問いに集中できるようになった。この変化は、2025年に入ってからわずか半年の間に起こったことだと振り返ると(少なくとも僕の開発体験としては)、その速度に今なお驚きを禁じ得ない。
情報処理能力の拡張 - Google Geminiの活用
開発業務以外でもAIの活用は進んでいる。私が所属する会社ではGoogle Workspaceを導入しており、その統合機能として提供されるGeminiもまた、私の知的生産活動に欠かせないツールとなっている。特に、最大100万トークンという広大なコンテキストウィンドウ(一度に処理できる情報量)は、これまでのChatベースのAIへのイラつきからの解放であった(AIは、そのウィンドウサイズにより、よく前の文脈を忘れてしまっていた)。
例えば、数十ページに及ぶ技術文書や論文のPDFを丸ごと読み込ませ、その要点を整理させたり、内容について質疑応答をさせたりすることで、物事の理解にかかる時間を大幅に短縮できる。また、日々の業務記録や議事録といった活動ログを定期的にインプットし、自身の業務の傾向分析や、次に取るべきアクションの提案をさせる、といった活用も会社をあげて行っている。これは、いわば「外部化された自己分析能力」であり、客観的な視点から自身の生産性を高めるための強力な武器となっている。
AIは世界をつまらなくしたか? - 「問い」の加速という面白さ
AIの急速な普及に伴い、その影響を評価する言論は大きく二つに分かれているように見える。一方は、「AIのせいで、人間の創造性は衰退し、生み出されるものは平均的でつまらないものになった」という悲観的な見方。もう一方は、「AIのおかげで、世界はより面白く、個性的になった」という楽観的な見方である。現時点において、私は明確に後者の立場に身を置いている。
「平均化」するAIという側面
確かに、ChatGPTに代表される大規模言語モデル(LLM)は、その基本構造として、与えられた入力(Input)に対して、統計的に最も確率の高い「続き」を予測して出力(Output)する。この仕組みを考えれば、類似した入力は類似した出力に収束しやすく、結果として生成物が平均化・画一化していく、という懸念は理解できる。実際に、表層的なプロンプト(指示)で生成された文章や画像には、どこか既視感を覚えるものが少なくない。この側面だけを切り取れば、AI時代は「面白くない」状態と言えるかもしれない。
先日、あるラジオ番組でのやり取りが、この「AIによる創造性の平均化」というテーマを考える上で非常に示唆に富むものだった。2025年6月11日放送の「佐久間宣之のオールナイトニッポン0」で、ゲストの劇団ひとり氏と声優の宮野真守氏が生成AIについて次のように語っていた。
宮野「エンタメとか芸術とかって、滞るところが面白かったりしませんか?アドリブやってて、ChatGPTだったら滞りなく返してくるところを、ちょっと詰まっちゃうところに面白みがある。」
彼らの言葉は、創造における「不確実性」や「苦闘」そのものに価値があるという本質を突いている。計算され尽くしたAIには生み出せない、人間特有の「もがき」からこそ、人の心を打つ何かが生まれるという考え方だ。この点において、AIが創造のプロセスから人間的な泥臭さを奪い、結果として楽しみを損なうという見方には、確かに一理ある。しかし僕は、これを別の角度からも捉えることができると考えている。それは、これまでエンターテインメントや芸術といった、一部の才能ある人々にのみ許されているように見えた「創造という名の問いの探求」が、AIによって全人類に解放された、という側面である。
本質はインプット - 「問い」の質と量の重要性
AI時代の本当の面白さは、アウトプットの裏側、すなわち「インプット」の重要性が飛躍的に高まった点にある。インプットとは、私たち人間がAIに投げかける「問い」そのものである。AIは、問いから答えまでの時間を極限まで短縮した。これは、一つの問いから次の問いへと至る思考のインターバルが劇的に短くなったことを意味する。つまり、私たちの「探求」が、かつてないほど加速しているのである。
これまでの知的探求は、多大なエネルギーを要する行為であった。本で調べる、専門家に話を聞く、インターネットで検索する。いずれも、自分の問いを既存の情報の海に投げ込み、関連性の高そうな断片を探し出し、それらを繋ぎ合わせて答えを再構成する、というプロセスだった。そこではしばしば、他者の問いや既存の回答のフレームワークに、無意識のうちに自分の思考が引きずられてしまうこともあった。
探求コストの低下と「純粋な問い」の解放
AIの登場は、この状況を一変させた。私たちは今や、他者の目を気にすることなく、既存の知識体系に忖度することなく、「自分の問い」を「自分の問い」として純粋に問うことができるようになった。これは、人類史における知のあり方の大きな転換点と言えるだろう。「もし、こうなったらどうなるだろう?」「なぜ、これはこうなっているのだろう?」といった、些細でありながらも根源的な好奇心を、極めて低いエネルギーコストで、瞬時に探求できるようになったのだ。
かつて大学の研究室で指導教官に「研究はテーマ決め、すなわち『問い』の設定が8割だ」と繰り返し言われたことの真意が、数年の時を経て、このような形で腑に落ちるとは想像もしていなかった。優れたアウトプットを生み出すAIの能力は、突き詰めれば、優れたインプット、すなわち良質な「問い」を立てる人間の能力に懸かっている。
だからこそ、今、AIを「楽しい」と感じている人々は、本質的に「問うこと」そのものに喜びを見出せる人々なのではないかと思う。自らの好奇心を起点として、思考を深め、世界を解き明かしていくプロセスが、AIという触媒を得て、かつてなくダイナミックで刺激的なものになっている。
前述のラジオ番組で、劇団ひとり氏は以下のようにも述べていた。
劇団ひとり「この前、chatGPTにiPhoneのアプリを作らせたんですよ。アプリができちゃうんですよ、俺。エアーガンが好きだから、エアーガンを発射した時に銃声がプスンプスンじゃない。だからこれをバヒューンって音が鳴るように、そういうアプリ作ってさ。」
この発言は、まさに僕が考える「問いの加速」を象徴している。「エアーガンの発射音が物足りないから、もっと迫力ある音にしたい」という純粋な好奇心や欲求(問い)が、専門的なプログラミング知識の壁を越えて、「音を鳴らすアプリを作る」という具体的な解決策(実装)にダイレクトに結びついているのだ。
ただし、この革命が、誰もが実感できる形で起きているのは、まだソフトウェアや情報という、デジタルの世界に限られているのが現状である。
AIが形を生む未来 - ハードウェアへの展開
ソフトウェアの世界で起きている革命が、もし物理的な世界、すなわちハードウェアの領域にまで拡張されたとしたら、それは社会のあり方を根底から覆す「真のゲームチェンジャー」となるだろう。自分の好奇心やアイデアが、思考の速度とほぼ同じスピードで、 tangible(触れることができる)な「形」として実現する世界を想像してみてほしい。
「問い駆動」の消費スタイルへの移行
例えば、今日の食事を選ぶとき。私たちはレストランのメニューやスーパーの棚といった、あらかじめ用意された選択肢(カタログ)の中から選ぶのが当たり前である。しかし、AIがハードウェアを制御する未来では、そのプロセスが逆転するかもしれない。自身の身体の状態(健康データ、アレルギー情報)、精神的な欲求(「今日は少し贅沢な気分」「疲れているから体に優しいものがいい」)、さらには味覚の好みといった複雑なインプットから、AIが最適な栄養バランスとレシピを瞬時に生成し、家庭用の調理ロボットがそれを再現する。それはロボットではなく、3Dプリンターかもしれない。そこでは、もはや「メニューから選ぶ」という行為は存在しない。あるのは、自身の「問い」に対する最適な「答え」としての食事だけである。
衣服についても同様だ。「既製品の中から自分の好みに近いものを探す」のではなく、「自分の頭の中にあるイメージそのものを着る」時代が来るかもしれない。言葉や画像でイメージをAIに伝えれば、デザインが生成され、素材が選定され、3Dプリンターや自動縫製機が、自分の身体に完璧にフィットする一着を仕立て上げる。
このように、私たちの生活を支える「モノ」の生産と消費のあり方が、根本から変わる可能性がある。これは、企業が大量に生産した商品を消費者が受け身で選ぶ「カタログ的消費」の時代の終焉であり、一人ひとりの「問い」が起点となる「問い駆動な消費」の時代の幕開けを意味する。子供の頃に科学館で胸をときめかせたSFのような未来、あるいは漫画で読んだ夢のような道具の世界が、少しずつ現実のものになろうとしているのではないだろうか。
新時代に求められる羅針盤 - 知的好奇心とAIリテラシー
このような大きな変革期において、私たちが豊かに生きるために求められる能力もまた、変化していくはずである。私は、その核心に「知的好奇心」と「AIリテラシー」という二つの要素があると考えている。
豊かさの源泉としての「知的好奇心」
AIがアイデアを形にするコストを限りなくゼロに近づける未来では、「何を形にしたいか」という欲望や好奇心そのものが、価値の源泉となる。「もっとこうだったら良いのに」「こんなものが欲しい」「この謎を解き明かしたい」「美しいものを創りたい」といった内発的な動機が、ダイレクトに生活の質や人生の豊かさに結びつく。どれだけのお金や時間という資源があっても、実現したい未来のビジョン、すなわち「問い」がなければ、AIという強力なツールを手にしても、真の豊かさを享受することはできないだろう。これからの豊かさは、所有するモノの量ではなく、抱くことのできる「問い」の質と量によって測られるようになるのかもしれない。
「AIリテラシー」とは何か - インプットの価値とリスク
そして、もう一つ不可欠なのが「AIリテラシー」である。この言葉は今後、間違いなく社会的なキーワードになるだろう。私が考えるAIリテラシーとは、単にAIを使いこなす技術ではない。それは、「その情報をAIにインプットして良いか否かを判断する能力」である。
問い、好奇心、意見がダイレクトに物理的なモノや社会の仕組みを形成する世界では、AIへのインプットそのものが、計り知れない価値を持つ。しかし同時に、そのインプットが僕たちの身体、ひいては社会にとっての毒(ポイズン)となり、意図せず破壊的なアウトプットを生み出してしまう危険性も秘めている。
現在のように、生成されるものが個人の利用範囲に留まる文章や画像であれば、その影響は限定的である。しかし、その対象が、先述したような食事のように人体に直接影響を与えるものや、多くの人々の生活基盤となる公共政策や法律のようなものであった場合はどうだろうか。インプットに悪意や偏見、あるいは単なる誤情報が混入するだけで、取り返しのつかない結果を招く可能性がある。
インプットのフィルタリングという倫理的課題
おそらく将来的には、AIへのインプットを監視し、有害な内容をフィルタリングする「ウイルスバスター」のようなプラグインやサービスが一大産業になるだろう。食品における毒物のように、誰が見ても有害だと判断できるものであれば、フィルタリングの基準は明確だ。しかし、これが政治や思想の領域となると、問題は一気に複雑化する。ある立場にとっては「正しい意見」が、別の立場からは「有害なプロパガンダ」と見なされることは珍しくない。そのとき、誰が、どのような権限と基準で、インプットをフィルタリングするのか。それは新たな形の検閲や言論統制に繋がらないか。この問いは、技術的な課題であると同時に、極めて高度な倫理的・政治的課題でもある。このような議論は、すでに政策立案の現場などで始まっているのかもしれないが、私たち市民一人ひとりが当事者として考えていくべきテーマであることは間違いない。
不確実な未来への期待
LLMの時代が始まって約3年。AIをめぐる状況は、目まぐるしく変化し続けている。本日記した雑感が、数年後にどれだけ的を射ているのか、あるいは完全に見当違いなものになっているのか、現時点では誰にも分からない。
確かなのは、私たちは今、人類史的にも稀な、刺激的で予測不可能な時代を生きているということだ。そこには計り知れない可能性があると同時に、未知のリスクも存在する。それでもなお、私は、これから訪れるであろう世界に大きな期待を寄せている。自らの「問い」が世界を形作っていく未来を、悲観するのではなく、主体的に関わり、楽しんでいきたい。